中国人ヨガ先生が読んだ「ヨガスートラ」の教え①お皿洗い
RYT200ヨガインストラクター養成講座もいよいよ終盤に入ってきました。
たどたどしい日本語を使いながら、ヨガのインストラクション日々練習している私は日本語に訳されたヨガ哲学の本も読んでおります。
師匠は私の読解力を配慮し、比較的にわかりやすく「ヨーガスートラ」(ヨガの経典である)を解説している本を教材にしてくれました。
今日はこの教材を読んで得た一つの教えについて書き書きしたいと思います。
タイトル通り、教材の中では「お皿洗い」について、ある修道士の名言を以下のように書いてありました。
「お皿を洗うとき、私は<神>がいかに話されるかを感じる」
うん?どういうこと?「お皿は神様なのか?」と思ってしまうでしょう。
そうなのだ、実はお皿も神様である!
教材の中では、
献身の生活とは何を献げるのか。
<神>はいっだい誰なのか。
それらについての説明がありました。
<神>は世界を<御自身>より作られた。
これを読んで、「万物は神である。神様が何もかも作ったとしたら、神様が作ったもの=神様」と私は捉えた。
「最大限、世界に奉仕するのだ」とも書いてあったけど、そんな大きな志…わかりにくいですよね?
もっと具体的に何をよればいいのかを考えていたら、上記の「お皿は神様」というお話が出てきました。
「お皿をていねいに扱えば、それらはチンチンと美しい音を立てる。だが、無造作に放る出せば、それらは泣く。お皿を洗うことだって礼拝であり得る。」
ここを読んで私は反省しました。料理は好きで作りますけど、洗い物はそこまで好きではありませんでした。
物を大事にする気持ちはあったけど、疲れていた時は大体お皿を放り出すような洗い方していました。無造作に洗い物をしながら私はいつも何か罪悪感のようなものを感じていました。粗末にお皿を洗っている自分の姿はとても嫌いでした。
どうにかこのストレスから解放されたかった私はこの文章を読んで救われました。
どうせやるなら、楽しくやればいいのにと思っていてもなかなかできなかったことが、この一言で心構えが変わりました。
お皿も神様と思えば、皿洗いだって礼拝だと思えば、丁寧に楽しくできるとではないかと
( ☆∀☆)
「あらゆる働きを、正しい態度という魔法の杖で、ヨーガへと変えよ」
ヨガはアーサナのポーズをとって、瞑想をしているだけではない。
正しい心の持ち方ができれば、すべてことが己を修練することとなる。お皿洗いだってそうできるし、他のことも考え方1つで、自分を磨くために思ってやったらきっと楽しい。
献身の生活は実は難しいことではなかった。
身近なところから、些細な行いからできる。
生活そのものに、献身すれば良い。
お皿もそうだし、お洗濯物だってそう、育児もそうだし、お仕事だってそう。しなくてはいけないことこそ、楽しくしたい。
私のように悩んでいる方も嫌なことから解放されるように考えを切り替えてみてはいかがですか?。
もうお皿を泣かせませんよ~
今日の書き書きはここまで。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。